| ■撮影協力 |
斎藤 孝雄 |
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一九二〇年三月五日京都生まれ。45年に巣鴨中学校(旧)を卒業、翌46年に東宝撮影所に入社。撮影助手を経て55〜61年はチーフを務め『用心棒』(61)までの六本の黒澤作品ではBキャメラを担当した。62年の『椿三十郎』より昇格、契約技師第1回作品。以後は『天国と地獄』(63)、『赤ひげ』(65)など黒澤作品を含む15本を東宝で担当。69年に三船プロへ移り『どですかでん』(70)、『影武者』(75)などの黒澤作品や岡本喜八『赤毛』(69)、森谷司郎『弾痕』(69)などを担当。82年よりフリーとなり日本アカデミー賞撮影賞の『乱』(85)、毎日映画コンクール撮影賞の『夢』(90)、日本アカデミー賞最優秀撮影賞の『八月の狂詩曲』(91)、日本アカデミー賞最優秀撮影賞の『まあだだよ』(93)など黒澤作品のほか、橋本忍『幻の湖』(82)、杉田成道『優駿』(88)などを担当、現在に至る。
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| ■撮影 |
上田 正治 |
一九三八年一月一日千葉県船橋市生まれ。56年に蔵前工業高校を卒業、四月に東宝入社。撮影助手を経て46年に技師昇格。83年からフリーとなっている。
代表作に『影武者』(75)、『乱』(85)、毎日映画コンクール撮影賞『夢』(90)、日本アカデミー賞最優秀撮影賞『八月の狂詩曲』(91)、日本アカデミー賞最優秀撮影賞『まあだだよ』(93)など黒澤作品のほか、『狼の紋章』(73)、『エスパイ』(74)、『F2グランプリ』(84)、『ほんの5g』(88)、『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』(85)などを担当している。
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| ■美術 |
村木与四郎 |
一九四四年に東京高専工芸図案科(現千葉大学建築科)を卒業、46年6月に東宝入社。53年3月から契約となる。
『生きものの記録』(55)、日本映画技術賞と毎日映画コンクール美術賞の『蜘蛛巣城』(57)、『どん底』(57)、『用心棒』(61)、『椿三十郎』(62)、『天国と地獄』(63)、『赤ひげ』(65)、『どですかでん』(70)、毎日映画コンクール美術賞の『乱』(85)、『夢』(90)、『八月の狂詩曲』(91)、『まあだだよ』(93)などの黒澤作品を担当。他の代表作に橋本忍『私は貝になりたい』(59)、小林正樹『上意討ち/拝領妻始末』(67)、森谷司郎『日本沈没』(73)、森谷司郎『小説吉田学校』(83)、松山善三『虹の橋』(93)、市川崑『四十七人の刺客』(94)などがある。
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| ■照明 |
佐野 武治 |
一九四七年松竹京都撮影所に入社。57年に契約技師となるが、65年に撮影所が閉鎖となり以降はフリーとして活躍を続けている。
『影武者』(75)をはじめ、『乱』(85)、『夢』(90)、『八月の狂詩曲』(91)の三本で日本アカデミー賞最優秀照明賞を受賞、『まあだだよ』(93)などの黒澤作品のほか、篠田正浩作品も『沈黙』(71)、『はなれ瞽女おりん』(77)、『瀬戸内少年野球団』(84)、『鑓の権三』(86)、『舞姫』(89)と多く担当している。ほかの代表作に京都市民映画賞照明技術賞を受賞した中村登の『古都』(62)、大島渚『帰って来たヨッパライ』(68)、実相寺昭雄『無常』(70)、松山善三『虹の橋』(93)などがある。
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| ■録音 |
紅谷 愃一 |
一九三一年六月七日京都生まれ。49年3月に京都市立第一工業学校電気科を卒業、7月に大映京都撮影所入社、録音科に所属。54年5月に日活撮影所入社、80年に退社。以降はフリーで現在に至る。
黒澤作品は『夢』(90)、『八月の狂詩曲』(91)の二本。
『人類学入門』(66)、『神々の深き欲望』(68)、『楢山節考』(83)、『黒い雨』(89)、『うなぎ』(97)など今村昌平作品や、『栄光への5000キロ』(69)、『陽は沈み陽は昇る』(73)、『南極物語』(83)など蔵原惟繕作品が多い。ほかに熊井啓『黒部の太陽』(68)、藤田敏八『赤ちょうちん』(74)、深作欣二『復活の日』(80)、森谷司郎『海峡』(82)など多数。
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| ■衣装 |
黒澤 和子 |
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一九五四年『七人の侍』の製作打ち上げの日に生まれる。成城学園高等学校卒業後、サン・デザイン研究所にてスタイリストの勉強をする。その後、伊藤衣服研究所デザイン科に入学、卒業後にデザイン会社を設立してファッション・デザインに従事する。74年株式会社黒澤プロダクション取締役就任。90年の『夢』から黒澤組に衣装担当として参加する。以降『八月の狂詩曲』(91)、『まあだだよ』(93)と衣装を担当した。現在は黒澤プロの取締役としてプロダクション業務に従事しており、映画衣装デザイナーとしても活躍している。
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| ■監督補 |
野上 照代 |
一九二七年東京生まれ。女学校在学中に伊丹万作の『赤西蛎太』(36)を観て感動する。47年に八雲書店に入社し編集員となるが49年に退社。京都に行き伊丹万作没後、遺児の岳彦(13)の世話役で京都大映に入り、スクリプター見習いとなる。50年に『羅生門』でスクリプターとして参加し、黒澤明と邂逅する。『生きる』以降は黒澤監督の全作品に参加、『どですかでん』(70)まではスクリプターを担当する。その後は『デルス・ウザーラ』(70)で共同監督、『影武者』(75)でアシスタント・プロデューサー、『乱』(85)以降『夢』(90)、『八月の狂詩曲』(91)、『まあだだよ』(93)でプロダクション・マネージャーを担当した。
また、66年から79年まで広告代理店サン・アドに所属。大阪万国博覧会でサントリー館の映像制作アシスタント・プロデューサー、サントリーや新潮社のCMプロデュースなどをつとめた。84年には第5回読売「女性ヒューマンドキュメンタリー」優秀賞、山路ふみ子賞スタッフ賞を受賞している。現在は群馬県新田郡笠懸野文化ホール企画委員として黒澤作品上映会などを続けている。
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