河原畑 寧
 参考文献
 The National Stage by Loren Kruger
 1992 The University of Chicago Press 活動は1935〜39年の4年間。ルーズヴェルト大統領の側近ハリー・ホプキンスが統 括する雇用促進局傘下に創設された。責任者はハリー・フラナガン(任命当時45歳 、名門ヴァッサー女子大の実験演劇劇場を主宰、ヨーロッパの演劇革命を取材した 著作『シフティング・シーン』がある演劇学者)。

もともとは失業演劇人に職を与 えるための政府資金を使っての演劇製作・公演のプロジェクトだが、演目は、演劇 だけに止まらず、児童劇、人形劇、ヴォードヴィル、サーカスから《リヴィング ・ニューズペーパー》というニューディール政策のプロパガンダ劇まで含んで幅広 く、演劇の大衆化、新しい観客の創出と教育をめざすという革新的なものだった。
 


 4年間のプロダクションは全米で1200、戯曲上演は830(うち77が新作)に上った 。観客動員数は4年で3000万人。1936年には30州で週50万人を動員した。ニューヨ ークだけでもフェデラル・シアター・プロジェクトのために4つの劇場が使われて いた。

 ジョン・ハウスマンはフェデラル・シアター・プロジェクトに最初から深く関わ っていた。新進演出家オーソン・ウェルズと組んで、ニグロ・シアター・プロジェ クトとしてハーレムのラファイエット劇場でオール黒人キャストによる『マクベス 』を上演、これが話題を呼び、余勢を駆って同じウェルズ演出でプロジェクト 891(クラシカル・ユニットと呼ばれるはずだったてが、スタッフはこれが気に入ら ず政府のファイル番号をそのまま使った)として、『イタリアの麦わら帽子』『ド クター・ファウスタス』を上演。次のプロジェクトが『ザ・クレイドル・ウィル ・ロック』だった。

 プロデューサーとしてのハウスマンのギャラは週給2ドル86セント。一方、オ ーソン・ウェルズのギャラはといえば『ドクター・ファウスタス』で週給1000ドル を取り、これで製作費の不足分を補充していたという。
 フェデラル劇場プロジェクトの、もう一つの呼び物だった《リヴィング・ニュ ーズペイパー》では、ジョセフ・ロージーが演出を担当、配下のスタッフにニコラ ス・レイがいた。このころエリア・カザンはブロードウェイの商業劇場で活躍して いた。のちにカザンと共にアクターズ・ステュディオを作るリー・ストラスバーグ は、グループ・シアターの主宰者の一人だった。

 ヨーロッパ演劇界との交流は盛んで、ソ連ではエイゼンステインとメイエルホリ ト、ドイツではベルトルト・ブレヒトが注目を集めていた。大恐慌に喘ぐアメリカ のインテリには、革命を経て計画経済を推進していた社会主義国ソ連の芸術が新鮮 で魅力的に写ったであろうことは容易に想像できる。

 
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