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ジョルジュ・サンド
(1804〜1861)
George Sand

1804年パリに生まれる。本名はオーロール・デュパン。父方はザクセン地方(旧東ドイツ)の元帥の末裔。1808年の父親の死後、ベリーのノアンにある彼の実家で祖母によって育てられる。幼少時代の転居と田舎暮らしは、彼女の人生に対する考え方や円熟期の作品に影響を与えた。激しい気性を抑制させるため、祖母は14歳の彼女をパリのオーギュスタン・アングレ修道院に入れる。1820年にノアンに帰り、幼なじみらに再会し、田園を駆け回った。そのころすでに家族の土地の管理について、強い関心を抱いていた。祖母の死後すぐ、1821年18歳で求めるままに田舎の小領主であったカジミール・デュドヴァン男爵と結婚。1823年にモーリス、1828年にソランジュという2人の子供が生まれた。結婚生活は平穏ではなく、凡庸なカジミールは狩りをしたり女中たちをもてあそんだりばかりの無教養な男で、サンドはたちまち夫を憎むようになった。

●ジョルジュ・サンドの『誕生』
夫婦の関係は悪化していった。オーロールはノアンを出ることを決意。夫の許しを得て、ふたりの子供を連れてパリに住むことになった。
1831年、7月革命の報せの興奮の中で19歳の学生ジュール・サンドーと暮らし始める。彼との合作は、J.サンドのペンネームで書かれた。『フィガロ』で記者としての第一歩を踏み出したのもこの時期で、ベリー出身のアンリ・ド・ラトゥーシュの指導による。多くのロマン主義の人々との交流も始まった。1832年、ジョルジュ・サンドと署名した「アンディアナ」で一躍文名を高める。オーロール・デュドヴァンはジョルジュ・サンドとなり、彼女の表現でいえば“たくましくタフなやつ”となった。そして1833年の小説「レリア」では、愛と結婚生活に対するヒロインの正直な感情がスキャンダルを巻き起こした。サンドは『両世界評論』の編集長、フランソワ・ビュローズと契約。彼はサンドの多くの小説を出版することになる。


●ロマン主義の恋人たち、ミュッセ、ショパン
1833年の春、文学者の集まる夕食の席でサンドはミュッセに出会う。ほどなく激しい恋に落ち、ミュッセはマラケ通りのサンドの家で暮らし始める。ヴェネチアへの旅行が最初の別れのきっかけとなり、幾度も断絶と仲直りを繰り返し、1835年にサンドが、この情熱の恋に疲れ果て、終わりを告げた。
ミュッセと別れて、サンドはベリーへ戻り、デュドヴァン男爵に身分と財産の分与を願い出る。彼はノアンの所有地を十分に与えた。1836年から1837年の間、彼女は多くの本を出版する。
1838年にショパンに出会う。彼らの関係は1847年まで、10年近くも続いた。サンドとショパンは主にノアンで生活した。サンドはさらに多くの小説を出版。ジャーナリストとしても活躍を続けていた。


●1848年の政治参加
サンドは幾度も小説の中で女性に関する事件の弁護をした。数々の雑誌にも共和主義を示唆する記事を寄せていた。1848年の革命は、彼女をさらにのめり込ませることになった。臨時政府要人の友人として、『共和制会報』にも寄稿した。彼女自身も『民事裁判』を発行したが、資金繰りに行き詰まり、3号で休刊になった。1848年の革命失敗、第二帝政到来以後は政治とは距離を置き、二度と関わることはなかった。

●ノアンの奥様
1850年版画家のアレクサンドル・マンソーに出会う。パートナーとして、また信頼のおける彼女の秘書として、1865年の彼の死まで共に過ごした。ジョルジュ・サンドはノアンで落ちついて暮らすようになった。庭を手入れし、息子とともにマリオネット劇場をつくった。田舎の生活への愛着と、貧しい人々に対する思いやりによって、“ノアンの奥様”と呼ばれた。だが、この“隠居生活”は見た目通りではない。「魔の沼」(1846)、「愛の妖精」(1848)など牧歌的な作品から、ミュッセとの関係の自己正当化するような「彼女と彼」(1859)など積極的に著作に励む。一方、彼女の自宅には偉大な文豪たち(バルザック、フロベール、A・デュマの息子、テオフィル・ゴーチエ、ツルゲーネフ)からの手紙が届いていた。彼女は絶え間なく、そうした友人たちと文通した。この時期にはまた、小説と劇作を交互に書いた(1848年から25を数える戯曲がパリで上演された)。

●1876年の死
1876年7月8日、数日間苦しんだ後、ジョルジュ・サンドはノアンで息を引き取った。葬儀にはフロベール、A・デュマの息子、ルナンらが参列し、彼女の希望により、市民と同様に埋葬された。ヴィクトール・ユゴーによる弔辞が、作家であり記者でもあったポール・ムーリスによって読み上げられた。“私はある死に泣き、ある不滅を迎える”。1866年に生まれたモーリスの娘のオーロール・サンドは、1961年に亡くなるまで、祖母の思い出を語り、ノアンの土地を国に遺贈した。
アルフレッド・ド・ミュッセ
(1810〜1857)
Alfred de Musset

1810年パリで生まれる。父は高級官吏で、歴史関係の著作を数冊出版しており、母方の祖父は詩人だった。裕福で文学的な家庭で、彼は芸術や文学に対する趣味を養い、その後の才能の開花を導いた。ふたりの家庭教師から学んだ後、9歳でアンリ4世校に入り、1827年にはラテン語の論文で賞を受賞。17歳の彼を詩の道に誘ったのは、クラスメートであり、ヴィクトール・ユゴーの義弟でもあったポール・フーシェだった。

●17歳でロマン主義の中へ
学校が終わってから、ミュッセは医学、法律、デッサン、英語、ピアノなどを学んだが、どれも彼の進むべき道ではなかった。そして、ユゴーの「セナクル」、シャルル・ノディエやアシル・ドヴェリア、アルフレッド・タテらのサロンに顔を出し、ロマン主義の先駆者たちに会って、彼らの主張と反逆精神に共感するようになる。1829年に「スペインとイタリアの物語」という初めての詩集を出し、きわめて自由奔放なスタイルで、ロマン主義の先達たちへの賞賛と、“古典主義”への怒りを露にした。そして決して上演されることのなかった戯曲「*悪魔の領収書」、オデオン劇場のために書き下ろした「ヴェネチアの夜」の上演は、非常に評判が悪かった。その時以来、どんな戯曲を書こうと上演はさせまいと、彼は心に誓った。

●成功とスキャンダル
ミュッセの絶望は彼があまりに早く感じとった悪徳(現実)と美徳(不可能な理想)との絶え間ない軋轢から生じた。20歳ですでに、彼の文学的名声は独自の「ダンディスム」と無分別という、毒気によって評判になった。
1833年、サンドと出会った年に、彼は「肘掛椅子で見る芝居」「アンドレ・デル・サルトオ」「マリアンヌの気紛れ」を『両世界評論』に発表した。詩作品同様に記事も執筆した。ますます大きな成功を手にし、サンドとの恋に情熱を注いでいたにもかかわらず、長篇の詩「ロラ」の中で、ミュッセは絶望に嘆き、愛の不能と人生の空虚をさらけ出した。
彼はその表現そのものであり、ロマン主義とも袂を分かつようになった。“どんな教会にも従属しない”ことを望んだのである。『両世界評論』に掲載された「デュピュイとコトネの手紙」(1836−1837)の中で、うそっぽい純真さと皮肉を交えた調子で、あらゆる「派閥」、とりわけロマン主義の無意味を、彼は繰り返し語った。“彼らは自分たちの年寄り臭い考え方を、新しい方法で若返らせようとしているのだ”。


●不可能の恋
ジョルジュ・サンドとの別れの後、ミュッセは数人の女性たちと希望のない関係を持つ。“良き後見人”ともいうべきジョベール夫人、エーメ・ダルトン、女優のラシェルやアラン夫人、ルイーズ・コレ…。1834年に「戯れに恋はすまじ」を、そして「ロレンザッチョ」を発表。
1836年に「世紀児の告白」を出版。サンドとの関係を小説化するとともに、彼のように迷える世代の肖像を描いた。同書は、パリ五月革命時に学生のバイブルとして再び読まれ、永遠の“青春の書”として記憶されている。


●47歳の死
晩年の20年間も、ミュッセは苦しみ続けた。“彼の心は血を流し、焼けつき、倦んでいる”(サント・ブーヴ)創作も少なくなっていた。1837年に出版を再開し、1853年まで続く。健康状態は常に危険な状態にあった。30歳で肺炎、34歳(1844)で肋膜炎を患う。さらにいくつかの戯曲を発表。1852年に詩選集(主に30歳以前の作品を集めたもの)を出版し、多くの人々から支持され、再評価が高まった。この年、アカデミー・フランセーズ会員として選出される。1857年、47歳のとき大動脈疾患と過剰なアルコール摂取により、その短い生涯を閉じた。
サンド関連書籍

映画「年下のひと」ノヴェライズ角川文庫刊)4月刊行予定
「赤く染まるヴェネツィアで
  〜サンドとミュッセの愛〜」
(B・ショヴロン著 持田明子訳 藤原書店刊)
「マヨルカの冬」(G・サンド J-B・ローラン画 小坂裕子訳 藤原書店刊)
「ジョルジュ・サンドからの手紙」(G・サンド 持田明子編=構成 藤原書店刊)
「往復書簡 サンド=フロベール」(持田明子編訳 藤原書店刊)

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