
『恋の骨折り損』お気に召すまで ◆ミュージカルになったシェイクスピア◆
「97年の冬、ニューヨークでウディ・アレンの『セレブリティ』に出演していた時に思いついたんだ。」
ケネス・ブラナーがこの戯曲をミュージカルとして映画化しようと考え始めたのは、かつて典型的なハリウッド・ミュージカルに刺激を受けたからだ。
「この戯曲の中には、歌とダンスを示唆するものが山ほどある。同時に、このストーリーには、つらいひねりがあるものの、ロマンティックな物語だと気づいた。現代にはしっくりこない要素もたくさんあるが、ガーシュイン、コール・ポーター、アーヴィング・バーリン等の音楽のウイットと華々しさに差し替えればいいと思った。彼らの歌詞の一途さは、この胸を打つラブ・ストーリーにピッタリだと思えた。」
99年初め、ミュージカルの経験がまったくない国際的なキャスト勢は、ブラナーが“ミュージカル基礎訓練キャンプ”と呼ぶ旅を始めた。その厳しい3週間のリハーサル期間が終わると、ロンドンのシェパートン・スタジオの3つのサウンド・ステージでの濃密な8週間の撮影が続いた。
リハーサルのプロセスは、多くの俳優にとってまるで演劇学校に戻ったような経験だった。ヴォイス・トレーニング、ダンス・レッスン、そして歌詞のリハーサルをノン・ストップで繰り返したのだ。「まるで『フェーム』の高校に通ってるみたいだった。」とマシュー・リラードは言う。「歌って踊って昼休みは15分だけさ!」
俳優たちの一途な情熱が、ケネスにとっての生命線だった。「僕らの誰にとっても楽ではないであろうこの経験に取り組んだ。映画の撮影ではあまり見られない、一風変わった劇団的な雰囲気があった。通常はこんなちゃんとしたリハーサル期間の贅沢は得られないからだ。俳優たちが本番中にダンスを間違えて撮影を無駄にしたとしても萎縮せず、 安心できるようにしたかった。しかし実際、誰かが間違えても、他のキャストの反応は怒りではなく、“身につまされる同情”だったんだ。」
また彼は、戯曲を脚色し、共同製作、監督、出演、そしてキャストとともに歌って踊るという何役もこなし、その離れ業は一緒に仕事をした全員を感心させた。
ブラナーはこう信じている。「僕が出演していなかったら、僕らがやった方法ではこの映画を製作することは不可能だっただろう。俳優たちに、『よーし、今8時だ、皆には1時間、もっともっと一生懸命踊ってもらいたい、そして次は歌。あ、悪いけど昼休みに衣裳合わせをやってくれないか、それにメイクもしてくれ、その後はマスコミのグループ・インタビューを頼む。』なんてとても言えなかっただろうからね。『僕も同じようにやるからさ』と言えない限り、そういう注文はすごく言いづらかったと思う。俳優が経験する不安や恐れを僕が理解したことで、彼らはある種の安らぎとプレッシャーからの解放感を得られたと思う。」
『恋の骨折り損』は皆が力を合わせて出来上がった映画であり、両大戦間の時代に数多くの名作を作ったジョージ&アイラ・ガーシュイン、ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリンなど偉大なる作曲家と作詞家たちの時代を超えたすばらしい歌の数々があったからこそ成し得た。
「これらはすばらしい歌で、50年も60年も人々の人生を豊かにしてきた。そして僕らのためにも活躍してくれた。映画のスタッフや関係者全員の雰囲気をこれらの歌がどれほど良くしてくれたことか。撮影中、皆の顔には笑顔がたくさん浮かんでた。これらの歌はイヤな世の中での一条の光だよ。」
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